昭和四十九年四月十八日 朝の御理解
X御理解第十二節 「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神」
いわゆる、天地を指しておられるですね。ですから、神様に会いたいと思えば、空を仰ぎ、地を拝すると、そういうしかし漠然とした神様であってはいけんのですね。はあ成程、空が神様たい。大地が神様たいというふうに教えておられるけども、それを本当に、天地を例えば、神として仰げれると言うこと。例えば私毎朝三時半に出て、天地を遥拝致します。拍手して合掌して拝んどりますとね。何かこう、これが天地のエレキであろうかと言うようなものを感ずるんです。天地の一つの伊吹に触れる感じがするんです。これは毎朝私の実感なんです。それ程しのものがね感じられて初めて、空が神、下が神ということがまあ言わば判ったんだと思うですね。ただ、空を仰いで空が神様たい、大地が神様たいと言うだけでは、観念の上で判った神様では、金光教で拝む天地金乃神というのは、天地をそのまま神様として拝むんだといったようなことを判っただけでは、またそれを、人にそう伝えただけではおかげにならん。
今朝から私、御神前で、都々逸の節でね、あれはなんですかね。青江美奈とかなんとか言う歌手がおりますでしょう。あの人の歌にね、[会えば別れがこんなにつらい。会わなきゃ夜が眠られぬ]もっと先がありましょうけれど、都々逸の文句として歌えばここまでしか歌われんのです。[会えば別れがこんなにつらい。会わなきゃ夜が眠られぬ]まあ刹那的な恋の喜びとか、または恋の情感を見事に表現した文句だと思うです。これはまたの都々逸の文句ですけども、これは頂いたわけではないですけれども、[思い出すよじゃ惚れよが薄い、思い出さずに忘れずに]という都々逸の文句があります。時々でも思い出すぐらいなことでは惚れよが薄いんだと、本当に惚れておるというのは、もうズーッと胸の中に、それこそ痛い程に思い続けるんだと、それが本当の惚れたんだという訳なんです。これは私と神様の場合なんかは、もうそんな感じはするんです。思い出す訳でもない。忘れる訳でもない。もう心の中にいつも、寝ても覚めても、この中に痛い程感じておる。そういう神様をです。私は頂いて初めて、「空が神、下が神」という実感というものが、頂けておるとこう思うんです。
昨日は、合楽会でございました。まあ色々御大祭のこぼれ話的な体験を皆さん、おかげ受けておられるなあ。まあだ信心はようやく私共がこちらへまいりましてから、お参りをする方達、合楽の指出・石浦の方達ばっかりなんです。
昨日は少し早めに切り上げたんですけれども、切り上げてからです。ちょっと今度の御大祭の時に、村内の方達が時たまでもここへお参りするといったような方達のところだけ、お米をぬいでそれをまとめて、合楽の世話人の方達がお供えをなさる。三升、五升というふうに、少しずつでもそうして集めて、それを俵にしてお供えをなさるわけなんですけれども、それで私は、これはもう前の晩のことでしたけれど、「却ってこりを積ますようなことはないでしょうか。時たま参るくらいのことに、大祭のたんびにこんなことせなければと言う人はないでしょうか」と言うて人間心を使いましたら、会長さんの中村さんが言われることが「それでもやはり石浦の方達がおかげを受けなければなりませんから」と言われるんです。「あんたたちがそういう気であるならばそれはそれどころじゃない。三升、五升のお米のことぐらいではないおかげを受ける。そういう気持ちなら皆がおかげを受けるでしょう。そんなら」と言うてお許しを頂いてなさっておられる訳です。
けどもやっぱり私が、人情を使ってる訳ですね。終わった後にまたやらせていただいてから、本当に御大祭に皆お参りをなさっておられるけども、近所の方だから、時たましか参ってきなさらん方だからと言うて特別に大事にするというようなことは致しません。それで、どうぞお供えを頂いておる方達に、またあんた達が会うた時に「大祭の時には不行き届きなことでどうもすいませんでしたとご挨拶しといて下さい」と言うて、私は御神前に出たんです。そしたら神様からね、まあお叱りと言う訳じゃないけども、「お前いらんことばっかり言うね」と言う感じで頂いたんです。
これは信心のないしかも近所の方達に、お参りされたけど挨拶一つしとる訳じゃないです。あれだけたくさんの人がおる中でございますから、まあ言うならば、付き合いで参って下さった方もあるかもしれんのです。けれども、お付き合いで参って下さったところでです。この神様は「一足でもこちらへ足を向ければおかげになる」とおっしゃる神様何ですから、私が例えばそう言うことは、そういうおかげを皆向こうにお返しするようなことになる、却っておかげを。
そして頂くことはです。『桜切る馬鹿』と頂きました。昔の諺にありますよね。「桜切る馬鹿。梅切らぬ馬鹿」という諺があります。皆さんご承知ですか。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」。桜というのは、手折ったり切ったりしたら、そこから段々腐って行くんだそうです。だから、桜を切る者は馬鹿だとこう言う。ところが、梅は切らなければならない。
久保山先生所にもう昔から、大きなしだれ梅がありますよ。あれはまあだ惜しい、まあだこれだけの花が付いておるから惜しいと言う時に、もう全部ぼんぼら坊主に切ってしまうんです。出ないと来年がね、長い枝にならない訳です。花が付かない。だから勿体ないけんと言って花が散ってからどん切ったっちゃ、または勿体ないからと言うて切らなかったらです。もう梅は駄目になると言う訳なんです。
私がその合楽の方達に言付けをしたことは、それこそ、桜切る馬鹿である。せっかく見事に真心に、大祭に咲いておる花を私が手折るような結果にしかならんのだと、これは、合楽の方達には、当てはまらんかもしれませんけれども、いわゆる、梅切らぬ馬鹿ということ。だから私は梅は切るのです。これはまあ私が切るのです。信心辛抱がでける。本当に辛抱が出来る。咲いたかと思うと切る。出たかと思うと摘む。それこそまたの都々逸の文句じゃないけれども[芽が出りゃ刈られ、葉が出りゃ摘まれ、それでも茶の木に花が咲く]という都々逸があります。それでもやはり、花が咲かなければならない。実が実らなければならない。
私が喧しゅう皆さんに言うのは、場合には、言わば切っておる場合があるのです。一生懸命になら、御用を求めるということもです。それだけそれは切られとるようなもんです。けれどもその御用が本当の御用になればなる程、自分のことが出来ん。教会の御用ばっかりせんならん。親先生の御用ばっかりせんならんと、そうしてもらいたいのじゃない、そうさせることがです。私は梅を切ること。だから、「もう親先生の側にいたら必ず用事言い付けられるけん」と言ったようなものではなくて、それこそ切られることを望んでの信心でなからなきゃならん。言わばそういう信心からでないとね、今日皆さんに聞いて頂いた都々逸の文句じゃないですけれども、[会えば別れがこんなに辛い。会わなきゃ夜が眠られん]と言う程しの情感というものが、神様と私、私と皆さんの中に通うて来ないのです。
私がここで気合い入れたり叱ったりする。そしたら心配になる。ちっとは言い過ぎたかなあ。というのは直ぐにでん出てきてから、「どうもすいませんでした」と言うて、出てくる。時のうれしさというか、親父は顔さえ見りゃ、小言を言う。だから出来るだけ敬遠しとく、といったようなことではね、私、今日言う、皆さんに聞いてもらう。ただ天地が神様だという観念の上の神様ではなくて、それこそ、通うもの、私が天地を遥拝するときにです。天地と私の間に交流するものがある。実感として感じられる。たまにはこうやって合掌しておるところの高々指のここからね、ジンジンジンジンするものを感じることがある。丁度電気にかかったように。天地はそういう、生きた大きな電気体のようなものです。だからこちらが生きた心を以て、天地を拝むから、言うなら生きた働きというものがそこに生まれてくるのです。ためにはです。言うなら、「思い出さずに忘れずに」と何時も自分の心の中に、かかり続け、胸が痛くなるような、神様と私共の中に、または取次者と皆さんとの中に、そういうものが交流するようになった時に、本当の意味において、私は、神様が、ここから、大きな天地の神様が判ってくると思うのです。
信心は、やはり私は感動だと思います。そういう生き生きとした感動が、湧いてくる、金光大神との間に。または天地金乃神さまとの間に、そういう感動的な出会いというか、頂けて初めて、空を仰いで神様、地を平伏して神様、と言えれる。いや本当の意味においての、金光教においての、天地金乃神さまが判った。これは神感なのです。金光教では神とかく腎と言う。神腎です。けどただ神をかく観るというだけでなくて、かく頂くということだけで、お道の信心があると思うです。
どうぞ。